- 金正恩による「二つの国家論」が在日コリアン
民族教育に投げかける前例なき試練 -

キム・ウンギ(金雄基) (翰林大学日本学科副教授)
在日本朝鮮人総聯合会(以下総連)は5月25日に創立70周年を迎える。この組織の歴史は、在日コリアンというディアスポラ集団の複雑な軌跡と深く交錯している。中でも朝鮮学校は教育·文化事業を通じて形成される総連系同胞社会の維持と再生産機能を担ってきた。
現在、この共同体が金正恩朝鮮労働党総書記の「二つの国家論」という政策転換によってその根幹から揺らいでいる。本稿はこの危機が単なる組織の動揺にとどまらず、総連と朝鮮学校を中心とした同胞社会が長い間依拠してきた「民族教育」理念と実践にどれほど深刻な打撃を与え、彼らのアイデンティティ形成にいかなる課題を投げかけているのかについて論議を試みる。
総連系同胞社会は「一つの朝鮮」の実現と朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮)を唯一の祖国とする理念を精神的基盤としてきた。これらは日本という異国の地で経てきた差別に対抗する上でも民族的尊厳を守る支えになってきており、共同体統合の求心点として機能してきた。

2014年5月に東京の朝鮮人文化会館で開催された朝鮮総連の全体大会の様子 / 聯合ニュース
この共同体は、世襲による独裁という北朝鮮の否定的な側面を抱えつつも「祖国統一」という民族的念願を掲げ、分断固着化の動きに対して倫理的優位を占めることで共同体の正統性を守ってきた。こうした優位性は、植民地支配と旧宗主国の差別に抗った歴史的経験に根ざす民族統一理念に由来する。
しかし、金正恩総書記が昨年、韓国を「第一の敵対国」、「別の国家」と規定する「二つの国家論」を公式化し、統一放棄を宣言したことは、この同胞社会が拠り所としてきた精神的基盤、すなわちアイデンティティを根本から否定することに他ならない。
こうした政策転換は、植民地支配の歴史を克服する意志を込めた民族統一理念に基づく倫理的優越性の土台そのものを破壊した。統一がイデオロギーのみならず、現実の政治的目標としても放棄され、韓国を敵対的な外国と見なすことで「民族の正義」としての統一論は形骸化し、その倫理的資本を失効させてしまった。
独裁体制の負の側面を統一という理想で覆い隠してきた構図が崩れ、露骨なまでの体制追従だけが残った現状は、彼らのコミュニティ内部に深刻なイデオロギー的混乱と活動の意味そのものに対する深刻な動揺を広範に引き起こしている。
そして、この混乱が最も直接的に影響を及ぼしたのは、同胞社会の民族教育機関である朝鮮学校である。繰り返すが、朝鮮学校は共同体の世代継承と再生産を担当する装置であり、教育内容は統一国家の未来と指導者に対する絶対的忠誠に主眼を置いてきた。
しかし、「二つの国家論」による統一放棄はこうした教育内容の核心を根こそぎ奪い去ってしまった。歴史、地理、思想などの領域で教育の核心を失った状況は、教育関係者らに教科内容の抜本的再構成という前例なき課題を背負わせ、教育者としての拠点を奪い、「大混乱」という表現が出るほどの機能不全を引き起こしている。
持続的な学生減少傾向に悩まされている朝鮮学校は、この政策転換によって日本政府の苛酷な差別政策に匹敵し,もしくはそれを凌駕する 深刻な打撃を受けている。
こうした状況は学校共同体に属す人々に深刻な「アイデンティティ・クライシス」をもたらした。「統一」を教育の中核に据えて きたからである。彼らはいま、自らをどのように再定義すべきかという根本的な問いに直面している。
さらにこれは「民族教育とは何か」という問いの再燃でもある。民族教育とは本来、在日コリアンの自生的概念であると同時に課題でもあった。植民地支配と旧宗主国で経験する差別に立ち向かい、自らの尊厳を守るための歴史的経験に根差すものである。
しかし、総連の組織化過程でそれは北朝鮮の一人独裁理念と結びつき、民族文化の継承と北朝鮮に対する絶対的忠誠、すなわち民族教育機関であると同時に国民教育機関という性格を色濃く帯びるようになった。今般の「統一放棄」により、対外的には「民族教育」を標榜する側面と「北朝鮮の国民教育機関」という内実を同時に内包する構造的矛盾がこれまで以上に鮮明になったのである。
それでもなお朝鮮学校が民族の言語と文化、歴史を継承し、在日コリアンとしてのアイデンティティを育む重要な場という事実に変わりはない。
それゆえ、北朝鮮との政治的結束がこれほどまでに強固でなかったなら、わずか二世代にして民族語と文化を失った在日コリアンがどれほど多くの子どもたちをここに送り、民族的資産を豊かに育むことができただろうか。もちろん、当時の国際情勢や朝鮮学校の存立条件上、極めて現実性に乏しい想像に過ぎないのだが...
一方、こうした混乱と矛盾は、彼らの同胞社会内部で体制の実状や「北への追従」に対する批判を表出させるきっかけともなっている。この期に及んでも体制に盲目的追従を続けることに対する懸念が噴出する中、一部の朝鮮学校では統一旗を掲げた事例も現れるなど、共同体内部の葛藤と多様化の様相を示している。
彼らが北朝鮮の動きによって困難に陥ったのは今回が初めてではない。
2002年の朝日国交正常化交渉の席上において、金正日国防委員長(当時)が日本人拉致の事実を認めたことは、日本における北朝鮮の事実上の代表機関である総連およびその構成員を窮地に追い込み、その活動を著しく制約した。
この事件は、北朝鮮指導部の予測不能な判断が、総連系同胞社会の安定と日本国内での立場にどれほど深刻な打撃を与えるものか、その構造的脆弱性を如実に示している。さらに、北朝鮮が日本にとって現在まで唯一の未修好国であるという事実は、総連という組織に対する恒常的な政治圧力を生み出している。
こうした圧力は総連だけでなく、在日コリアン総体に対する差別と偏見を維持·強化させる機能を持つ一方、彼らにとっては逆説的に共同体内部の結束を強化する役割も果たしてきた。
今日の「二つの国家論」による危機は、このような過去の特定事案に対する対応とは異なり、「統一」というイデオロギーとそれに基づく倫理的優越性、そして共同体の根幹である「民族教育」の神話そのものを否定する。これは彼らのアイデンティティと存立基盤を根底から揺るがす「存在論的危機」である。
しかし、こうした深刻な状況にもかかわらず、総連と朝鮮学校を基軸とする同胞社会が直ちに瓦解すると短絡的に考えるのは早計である。共同体の存続を下支えする構造的要因が健在だからである。
中核をなすエリート層は、共同体内での活動のほか、日本の主流社会でも活動しており、彼らの言動は日本の市民社会において一定の影響力を有している。また、規模が持続的に縮小してはいるものの、朝鮮学校の他にも傘下組織や関連企業などが構成員に働き口を提供しており、これらもまた、代案的求心点として機能している。
さらに、北朝鮮に家族を送った多くの同胞にとって、組織からの離脱は同胞社会との断絶と同義であり、映画<かぞくのくに>に描かれたように、事実上の人質として北朝鮮に暮らす血縁の生命と安全が脅かされるという絶望的な状況が組織への帰属を維持させる重圧として作用している。
それらに加え、朝鮮学校を支持する一部の日本市民と知識人が依然として存在する点も総連系同胞社会が完全に孤立しない緩衝材の役割を担っている。
彼らは朝鮮学校を民族教育機関としての側面のみ注目し、国民教育機関という別の側面には目を向けない、もしくは知りつつも植民地支配に対する贖罪意識ゆえ、口を閉ざす傾向がある。こうした要因が同胞社会の粘り強さ、すなわち、どれだけ厳しい状況に置かれても決して崩壊しない構造を形成している。
これまでの論議を整理すると、総連を中心とした同胞社会は、北朝鮮体制からの圧力、コミュニティ内部の混乱、日本社会からの政治的圧力といった複合的な構造的要因の下、完全な崩壊に至るというよりは、その形態と性格が漸進的にではあるものの、変貌せざるを得ない状況にあると言えるだろう。
「二つの国家論」は、北朝鮮の最高権力者自らが拉致という国家犯罪を認め、日本社会に与えた衝撃をはるかに上回る大きな意味を持つ。この根源的衝撃が共同体の根幹である民族教育に今後どのような変化をもたらすのか、その帰趨は注目に値する。
民族教育における両輪の一つである統一理念を失い、いわば「片輪走行」になった民族教育が、この苦境の中でもその意義を保つことができるのか。あるいは過去に民族教育を支援したという北朝鮮国家の「恩義」という政治的修辞によって同胞社会の動揺を鎮めることができるのか。
北朝鮮国家による統制強化の試みの一環とも見られる昨今の頻繁な総連および朝鮮学校関係者の訪朝の動きも、こうした文脈で読み取るべきである。
総連創立70周年は、過去に対する省察と未来に向かうための方向転換をこの共同体に厳しく求める「運命の分水嶺」となるだろう。彼らが果たしてこの危機にどのように向き合うのだろうか。
また、国家に依拠しない真の在日コリアン固有の「主体的」民族像を描き出すことができるのだろうか。大統領選挙を控え、北朝鮮との関係再定義という喫緊の課題に直面する韓国社会もまた、こうした動向をいつにも増して注視すべきである。
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